高校時代柔道の選手で相撲部の県大会に助っ人出場し、11代佐渡ケ嶽親方(琴錦)の目に留まり大相撲の門をたたきました。昭和34年初場所、本名の「鎌谷」で前相撲を取り3番出世、翌春場所には「琴櫻」の四股名を貰い、東序ノ口20枚目と番付に初めてその名が載りました。
琴櫻の「琴」は、師匠の現役名「琴錦」から取ったもので、「櫻」は、郷里鳥取県倉吉市の打吹山が桜の名所であるところから付けられました。
当時、佐渡ケ嶽部屋唯一の関取、伝家の宝刀内掛けを武器に活躍する”南海の黒豹”と言われた大関琴ケ浜
(※注)に鍛えられ
(※注)
琴ケ浜は、猛稽古一筋で大関の地位を築いた人として知られ、二所一門の荒稽古は横綱
玉錦以来の伝統で、この中でも若乃花と琴ケ浜の若い頃の稽古ぶりは言語を絶し、今で
も当時を知る人々の語り草になっています。 その荒稽古は、関取になってからも変わらず
若者を容赦なく投げ飛ばし、羽目板にぶつけ、「鬼」と恐れられました。 仕上げのぶつかり
稽古では、目がくらみ、呼吸も出来ないほどしごかれる毎日でした。(右写真:琴ケ浜)
”猛牛”のニックネームどうり150キロの体を活かした鋭い当たりで先手を取り左のど輪、右おっつけの攻撃相撲は、破壊力があり柏・鵬時代の両横綱、大鵬、柏戸に真っ向から勝負するその姿は、魅力に満ち溢れていました。
稽古熱心で礼儀正しさは、各界一の人柄と定評があり、「努力・前進」の好きな言葉通りの道を歩み、引退後すぐに11代佐渡ケ嶽親方が急逝、部屋を継承してより平成17年九州場所・定年退職に至るまで多くの関取を育てました。
それは、関取衆不在の切れ間が一度も無いほどで晩年は名伯楽と詠われる程でした。
平成19年(2007年)名古屋場所終了20日後・・・ 8月14日 享年66歳
多機能不全により、千葉県松戸市内の病院でその生涯を閉じました。